仏教の話

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観とは智慧のことである。」~観自在菩薩という時の「観」について

 文芸評論家の小林秀雄氏は、『私の人生観』という講演のなかで、「人生観、人生観と 解(わ)かり切ったように言っているが、本当はどういう意味合いの言葉なのだろうか」と述べ、人生観の「観」という語に注目しています。彼によれば、宮本武蔵は見るということについて、「観」 と「見」の2つの見方があるといい、通常のはたらきを持つ「見の目」と、心眼ともいうべき「観の目」を区別していたといいます。
 「観」も「見」もともに“みる”と読みます。一般に、「見」とは、ちょっと目に入る、なんとなく見えるの意味であり、表面的で常識的な見方をいいます。それに対して、「観」は念を入れてよく見る、明らかに見るという意味であり、仏教では、ものごとの表面的な有様を突き抜けて、その本質を見透(みとお)す智慧のはたらきを「観」といいます。
  仏教者は「観の目」をもって何を洞察するのでしょうか。人間のどのような本質が「観の目」によって見透されるのでしょうか。『法華経』には、常不軽(じょうふぎょう)[常に軽んじない]という名前をもつ菩薩が登場します。名前のごとく、決して他人を軽視したり軽蔑したりすることがありません。この菩薩は会う人ごとに、「わたしはあなたを心から尊敬します。なぜなら、あなたはいつかきっと仏になる御方(おかた)だから」といって合掌し、礼拝(らいはい)をくりかえしました。ある人びとはそのような行為をかえって不快に思い、杖でなぐり、石を投げつけようとします。それでもこの菩薩は、迫害を受けながらも、人びとに対する礼拝の行為をやめなかったといいます。常不軽菩薩は、あらゆる人びとの心の奥底に、人間の理想(仏)を達成する因となる大切なものが隠されてあることを、洞察していたのです。
  私たちはとかく「見の目」によって、人間の外面的な姿を見て、自他を評価しがちです。誇るべきは人の社会的地位であり、生まれであり、財産であり、持ち物であり、あるいは好ましい容姿であったりします。それによって自他を比較し、ある時には優越感にひたり、またある時には劣等感にさいなまれます。優越感と劣等感のはざまを振り子のように揺れ動くのが、私たちの日常的な意識のありようでしょう。一方、人間の外面的な諸条件を超えて、人の心の奥底に隠されてある宝物を見透すのが「観の目」であり、智慧のはたらきです。その宝物は、私たちにとって遠い遙かなものであり、それを見つめようとしても微(かす)かにしか感じられず、ほのかな光のようにしか窺(うかが)えないものであるかも知れません。しかし、それこそが私たちの孤独な心の支えともなり、また、人間を尊敬し、信頼する拠(よ)り所ともなるものに違いありません。
※英語で「インスパイア」という言葉が近ごろ若い人たちがよく使います
「尊敬する」「尊重する」「信頼する」という意で使われるようですが、「常用しすぎて」利かなくなる薬と同じ存在になることを恐れているのですが老婆心でしょうか

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